抹茶味chips
ヲタ系雑記サイト(二次元全般・舞台訪問・天文・痛車・whisky etc)
「妄信」はせずに、現実と折り合いをつけてうまいことやっております。。
具体的には「?」の海に溺れることが多いくらいでしょうか。
やっぱり「人の作ってるシステム」には何らかの恣意的なものが隠れてて
「どういう意味があるんだろう?」とか考え出すと止まらない感じですね。
子供だったら「ねーねー、あれなんでー?」って
口に出しちゃっても恥ずかしくないんですが、いい大人なので自重します。
やっぱり「現実」って、自分たちの理想とする世界とは程遠いんですよね。厳しい。うん。
言い方悪いですけど、ほんのはした金を稼ぐために自分のやりたくないと感じることでも我慢してやらなければいけない。
「夢」を「現実」に出来た人って、やっぱりこの世界ではごく一握りに過ぎないと思います。
おまけに、そんな人ですら「現実」になった「夢」にすら嫌気が刺してしまうのかもしれない。
誰もが自分の「理想」を「空想」して生きているこの世界、
やっぱり究極的に楽しいのはフィクションなんだと思ってます。
ゲーム・アニメ・漫画・ドラマ・演劇・小説…etc
「フィクション」を調べてみると
ラテン語の作られたものを意味するfictioを語源とし、
現実ではないもの、虚構、絵空事、作り話など、
創作・捏造されたものや想像上のものを指す。
とあります。
それこそ、神話や宗教の域に至っても「フィクション」であると言ってしまってもいいのかもしれない。
だってそもそも「神様」って概念が作り物ですし。 人の脳の創り出す「概念」って面白いですよね。
「何でそんなものを創ったの?」と問われれば、一重に「精神の安定の為」だったんだと思います。
今もなお自然淘汰の運命の中にいる「人間」が、どうすれば今という時を信じて生きられるか。
やっぱり拠り所にすべき「何か」が無いと、ダメなんでしょうね。
人生ってさ、「終わってみれば」あっという間の一瞬の出来事だと思うんですよ。
今こうやってタイピングしているこの瞬間までの「記憶」だってほんの一瞬の走馬灯みたいなものでさ。
それでも健康そのものだから、この後も永遠に近いような気の遠くなる時間を生きていかないといけない。
ねぇ、「幸せ」って何だろうね。
お金がいっぱいあって、好きなものがたくさん買えること?
自分の心を他人と通わせること?
気持ちのいいことをたくさんすること?
新しいもの、面白いものをたくさん見つけること?
生きていることそれ自体が幸せなのかもしれないし、本心ではそうは思っていないのかもしれない。
「自己実現欲求」って言葉があるけどさ、「自己」が分かるまでは何を「実現」すればいいのかすら分からない。
結局、自分が「死ぬ」瞬間までは何も分からないんじゃないだろうか。
ただ日々自分が「生きている」事実を感じて、気持ちのいいもの、そうでないものを選んで、「幸せ」に一歩でも近づこうと歩み続ける。
その間にとんでもない「出来事」や「出会い」があるかもしれない。
そんな時には否が応でも軌道修正されてしまうのが運命というもの。
自分は、本当に目指すものの定まらない人間でした。
もしかしたら、最初から「死に場」を探していたのかもしれない。
でも「死にたい」っていうのは動物として生きる以上、一番の我侭なんだと思います。
そりゃあ理性ある人間だからさ、「屈辱」があればそれこそ舌噛んででも死にたいとすら思う場面だってあると思う。
でもさやっぱり動物だから理性だけではいけないんだと思うんですよね。
理性と本能のバランス。それを上手いことやってあげないと・・・。
あの時感じた、自分の信じる「ど真ん中」を
どうやったら他の人とメッセージとして共有し合えるか、
それを模索し続けるのがこれからの自分の人生の意味だと思っております。
まぁ他の人類全てが日々「代弁」し続けて下さっているので、
ぶっちゃけもう悔いは無いっちゃ無いんですけどね。
それでもちょっとだけの自己実現欲求という「我侭」が
いつも私の背中をちょっとだけ押し続けてくれています。
具体的には「?」の海に溺れることが多いくらいでしょうか。
やっぱり「人の作ってるシステム」には何らかの恣意的なものが隠れてて
「どういう意味があるんだろう?」とか考え出すと止まらない感じですね。
子供だったら「ねーねー、あれなんでー?」って
口に出しちゃっても恥ずかしくないんですが、いい大人なので自重します。
やっぱり「現実」って、自分たちの理想とする世界とは程遠いんですよね。厳しい。うん。
言い方悪いですけど、ほんのはした金を稼ぐために自分のやりたくないと感じることでも我慢してやらなければいけない。
「夢」を「現実」に出来た人って、やっぱりこの世界ではごく一握りに過ぎないと思います。
おまけに、そんな人ですら「現実」になった「夢」にすら嫌気が刺してしまうのかもしれない。
誰もが自分の「理想」を「空想」して生きているこの世界、
やっぱり究極的に楽しいのはフィクションなんだと思ってます。
ゲーム・アニメ・漫画・ドラマ・演劇・小説…etc
「フィクション」を調べてみると
ラテン語の作られたものを意味するfictioを語源とし、
現実ではないもの、虚構、絵空事、作り話など、
創作・捏造されたものや想像上のものを指す。
とあります。
それこそ、神話や宗教の域に至っても「フィクション」であると言ってしまってもいいのかもしれない。
だってそもそも「神様」って概念が作り物ですし。 人の脳の創り出す「概念」って面白いですよね。
「何でそんなものを創ったの?」と問われれば、一重に「精神の安定の為」だったんだと思います。
今もなお自然淘汰の運命の中にいる「人間」が、どうすれば今という時を信じて生きられるか。
やっぱり拠り所にすべき「何か」が無いと、ダメなんでしょうね。
人生ってさ、「終わってみれば」あっという間の一瞬の出来事だと思うんですよ。
今こうやってタイピングしているこの瞬間までの「記憶」だってほんの一瞬の走馬灯みたいなものでさ。
それでも健康そのものだから、この後も永遠に近いような気の遠くなる時間を生きていかないといけない。
ねぇ、「幸せ」って何だろうね。
お金がいっぱいあって、好きなものがたくさん買えること?
自分の心を他人と通わせること?
気持ちのいいことをたくさんすること?
新しいもの、面白いものをたくさん見つけること?
生きていることそれ自体が幸せなのかもしれないし、本心ではそうは思っていないのかもしれない。
「自己実現欲求」って言葉があるけどさ、「自己」が分かるまでは何を「実現」すればいいのかすら分からない。
結局、自分が「死ぬ」瞬間までは何も分からないんじゃないだろうか。
ただ日々自分が「生きている」事実を感じて、気持ちのいいもの、そうでないものを選んで、「幸せ」に一歩でも近づこうと歩み続ける。
その間にとんでもない「出来事」や「出会い」があるかもしれない。
そんな時には否が応でも軌道修正されてしまうのが運命というもの。
自分は、本当に目指すものの定まらない人間でした。
もしかしたら、最初から「死に場」を探していたのかもしれない。
でも「死にたい」っていうのは動物として生きる以上、一番の我侭なんだと思います。
そりゃあ理性ある人間だからさ、「屈辱」があればそれこそ舌噛んででも死にたいとすら思う場面だってあると思う。
でもさやっぱり動物だから理性だけではいけないんだと思うんですよね。
理性と本能のバランス。それを上手いことやってあげないと・・・。
あの時感じた、自分の信じる「ど真ん中」を
どうやったら他の人とメッセージとして共有し合えるか、
それを模索し続けるのがこれからの自分の人生の意味だと思っております。
まぁ他の人類全てが日々「代弁」し続けて下さっているので、
ぶっちゃけもう悔いは無いっちゃ無いんですけどね。
それでもちょっとだけの自己実現欲求という「我侭」が
いつも私の背中をちょっとだけ押し続けてくれています。
この記事のトラックバックURL
http://greenchips.blog.2nt.com/tb.php/361-d5392537